この人物が政治をしていた時期のイベントについて説明します。最強のライバルをクーデターで排除し、意気揚々と海外進出を狙ったものの、世界の大国にボコボコにされて必死の防衛戦に突入した時のお話です。
- クーデター(乙巳の変)で蘇我氏の独裁を終わらせ、改革のスタートを切ったこと
- 白村江の戦いでの敗北をきっかけに、国防を強化し、都を大津に移したこと
- 庚午年籍という初の全国戸籍を作り、税と兵を管理する「律令国家」の土台を作ったこと
天智天皇はどんな人?
今からおよそ1350年前、飛鳥時代の日本でリーダーをしていた男性です。
長い間「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」という名前で、お母さんの斉明天皇などを支えながら実質的なトップとしてバリバリ働いていました。
日本初の本格的な国家改革「大化の改新」をプロデュースし、敗戦のどん底から「戸籍」などの国の基礎システムを作り上げた、超タフな苦労人リーダーです。
登場する地方や国について
どのくらいの時代?
天智天皇が歴史のどのあたりに立っているのか、天皇の系譜の中で確かめてみましょう。
1. 独裁専務を会議室で「強制終了(デリート)」
中大兄皇子は、リーダーとして動く前に大きな壁にぶつかっていました。
彼は、神聖な儀式の場でいきなりライバルの蘇我入鹿を襲撃し、力ずくで独裁政治を終わらせました(乙巳の変)。
これは例えば、「やりたい放題だったモンスター専務を、若手役員が大事な経営会議の最中に、社長の目の前で物理的にクビ(暗殺)にした」という、とんでもなくバイオレンスな人事刷新です。
何をしたのか・どうなったのか
こうして蘇我入鹿は討たれ、翌日には父の蘇我蝦夷(そがのえみし)も自害に追い込まれました。これによって、長く朝廷で強い力をふるっていた蘇我氏本宗家の独裁体制は終わりを迎えました。この出来事を「乙巳の変」といいます。
645年、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となり、朝廷内で権勢をふるっていた蘇我蝦夷・入鹿の親子を滅ぼした政変です。舒明天皇の時代から温存されてきた豪族優位の構図がついに限界を迎えた出来事ともいえ、この直後から天皇中心の国づくりを目指す一連の改革が始まりました。古代史の大きな転換点として、教科書でも必ず取り上げられる事件です。
そしてクーデターの翌年646年、中大兄皇子たちは新政府の基本方針を発表しました。土地と人民を国家が直接治める公地公民制や、新しい税制などを盛り込んだこの方針を「改新の詔」といいます。
646年に発表された、新政府の基本方針を示す宣言です。豪族が個別に土地と人民を支配していた仕組みを改め、国家が直接治める公地公民制や、新しい税制の導入などが盛り込まれました。乙巳の変で権力を奪い返した中大兄皇子たちが、具体的な国づくりの設計図として示したもので、のちの律令国家建設の出発点として位置づけられています。
2. 大国相手の「無謀な買収支援」で大失敗
国内をまとめた中大兄皇子は、次に海外のトラブルに首を突っ込みます。
しかし、準備不足のまま挑んだ「白村江(はくそんこう)の戦い」で、日本軍は文字通りボコボコにされて大敗を喫しました。
これは、「倒産した関連会社を救うために、業界最大手の『唐商事』にケンカを売ったら、返り討ちに遭って自社の資産(軍隊)をほとんど失ってしまった」というような、大赤字の海外投資失敗です。
何をしたのか・どうなったのか
663年、日本の水軍は朝鮮半島の白村江で唐・新羅連合軍と衝突し、壊滅的な敗北を喫しました。百済復興の望みはここで完全に絶たれ、日本は自国の防衛そのものを本気で考えざるを得なくなりました。
663年、百済復興を目指して朝鮮半島へ派遣された日本の軍が、唐・新羅連合軍と朝鮮半島西岸の白村江で激突し、大敗を喫した戦いです。この敗北によって日本は朝鮮半島における足がかりを完全に失い、唐・新羅の軍がそのまま日本本土まで攻めてくるのではという強い危機感が朝廷内に広がりました。この危機感が、次に見る大津への遷都や九州の防衛強化へと直接つながっていきます。

3. 本社移転と「セコム」強化の必死モード
敗戦のショックで、中大兄皇子はパニックになります。
彼は、外敵から身を守るために都を大津宮に移し、日本各地に巨大な要塞を築きました。
これは、「ライバル企業からの乗っ取り(侵攻)を恐れて、本社を急きょ内陸のセキュリティー万全なビルに移転し、全国の支店にガードマンを配置してガチガチの防衛体制を敷いた」ような状況です。
何をしたのか・どうなったのか
667年、都は飛鳥から近江大津宮(おうみのおおつのみや、現在の滋賀県大津市)へと移されました。この遷都を「近江大津宮への遷都」といいます。あわせて九州の博多湾岸には水城(みずき)と呼ばれる巨大な堤防状の防衛施設が築かれ、九州沿岸には防人(さきもり)と呼ばれる兵士が配置されました。
667年、白村江の戦いの敗北を受けて、都が飛鳥から近江の大津(現在の滋賀県大津市)へ移されました。海に近い飛鳥に比べ、山に囲まれた内陸の大津は防衛上有利な立地だったとされています。あわせて九州には水城や大野城などの山城が築かれ、防人が配置されるなど、日本列島全体を巻き込んだ本格的な防衛体制の整備が進められました。668年、天智天皇はこの大津宮で正式に即位しています。

4. 社員全員の「マイナンバー」登録開始
守りを固めるために、中大兄皇子はさらに組織の基盤を整えます。
彼は日本で初めて、全国規模の戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成しました。
これは、「これまで適当だった社員名簿を完全デジタル化(戸籍作成)し、誰からどれだけ会費(税金)を取り、誰を現場(徴兵)に送り出すかを一瞬で管理できるようにした」という、究極の管理システム導入です。
何をしたのか・どうなったのか
670年、日本で初めての全国規模の戸籍が作成されました。作成された年の干支(庚午)にちなんで、この戸籍は「庚午年籍」と呼ばれています。
670年、天智天皇の命によって作成された、日本で初めての全国規模の戸籍です。作成年の干支である「庚午」にちなんでこう呼ばれます。人々の住む場所や家族構成を国家が把握することで、税を徴収したり兵士を集めたりする土台が整いました。のちの律令制度における戸籍・班田制の原型ともいえるもので、国家が個々の人民を直接管理する仕組みへ踏み出した重要な一歩です。
総括
結果:天智天皇(中大兄皇子)は、蘇我氏を倒して「天皇が一番偉い国」を目指しましたが、海外での大敗北(白村江の戦い)によって、その野望は一度挫折しました。しかし、その危機感から「大津宮への遷都」や「日本初の戸籍作成」を行い、日本が一つの組織としてまとまるための基礎を必死に作り上げました。
一方:あまりに強引な中央集権化や、敗戦後の過酷な防衛プロジェクトは、周囲の豪族たちの不満を爆発させました。これが彼の死後、息子(大友皇子)と弟(大海人皇子)が国を二分して争う「壬申の乱」という、日本最大級の社内抗争を引き起こす引き金となってしまったのです。
672年、天智天皇の死後に起きた、古代日本最大規模の皇位継承争いです。天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇)と、天智天皇の弟である大海人皇子が皇位をめぐって激突し、地方豪族を巻き込んだ内乱の末、大海人皇子が勝利しました。勝利した大海人皇子はのちに即位して天武天皇となり、天智天皇が敷いた中央集権化の路線をさらに強力に推し進めていくことになります。
まとめ:天智天皇の意義
- クーデターの成功:乙巳の変で蘇我氏の独裁を終わらせ、改革のスタートを切った。
- 敗戦からの学び:白村江の戦いでの敗北をきっかけに、国防を強化し、都を大津に移した。
- 管理国家の誕生:庚午年籍という初の全国戸籍を作り、税と兵を管理する「律令国家」の土台を作った。
理解度確認テスト
Q1. 645年、外交の儀式が行われていた最中、中大兄皇子と中臣鎌足によってその場で討たれ、これをきっかけに父も翌日自害に追い込まれた結果、長く朝廷で権勢をふるっていた一族の独裁体制が終わりを迎えることになった人物は誰でしょう。人物名で答えてください。
A. 蘇我入鹿
Q2. 百済復興のために朝鮮半島へ派遣された日本の水軍が、唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、その後日本が大津への遷都や九州の防衛強化へと舵を切るきっかけとなった、朝鮮半島西岸の川の名を冠した戦いを何といいますか。
A. 白村江の戦い
Q3. 670年、人々の住む場所や納税能力を国家が把握する目的で作成された、日本で初めての全国規模の戸籍を何といいますか。作成された年の干支に由来する名称で答えてください。
A. 庚午年籍
最後に、この厳しい管理体制に耐えかねた弟の大海人皇子が、吉野で爪を研ぎながらリベンジの機会を伺うことになりますが、それはまた別のお話。
以上、天智天皇でした。
人物対応表
- 中大兄皇子:天智天皇の元の名前
- 中臣鎌足(藤原鎌足):中大兄皇子の右腕
- 蘇我入鹿:殺されたモンスター専務
- 大化の改新:会社を立て直す巨大プロジェクト
- 百済:倒産しそうになった取引先
- 唐:業界最大手の競合他社
- 白村江の戦い:海外進出の大失敗
- 大津宮への遷都:セキュリティー重視の本社移転
- 庚午年籍:初の全社員名簿システム