歴史・社会の疑問 読了 7分

【明治時代・桂太郎】桂が勝った! ロシアに判定勝ちして世界デビュー

桂太郎(第1次)の記事サムネイル

※「桂(かつら)」と「勝つ(かつ)」をかけ、大国ロシアとの戦いに粘り強く勝利をもぎ取ったことを表しています。

この人物が政治をしていた時期のイベントについて説明します。タイトルの約束どおり、「絶対に勝てない」と言われた世界最強のライバル(ロシア)に対し、外交と軍事で粘り強く戦い抜き、最後は「判定勝ち」で日本を世界一流の仲間入りさせた時のお話です [1], [2]。

桂太郎(第1次)はどんな人?

今からおよそ125年前、山口県出身で日本の第11代社長(内閣総理大臣)をしていた男性です。 通算の在職日数は歴代トップクラスの合計2886日を誇る、粘り強さNo.1のリーダーです。 「日英同盟」や「日露戦争」といった巨大なプロジェクトを成功させ、日本をアジアの小国から世界の一等国へと押し上げた実務派プロデューサーです [1], [3]。

補足

在職期間:第1次桂内閣は1901年6月2日から1906年1月7日まで、1,681日間続きました。桂の首相在職は3内閣通算2,886日です。

登場する地方や国について

イギリス・ロシア・アメリカ・ポーツマスと日本の位置関係。丸は代表位置で、領域を示しません。
イギリス・ロシア・アメリカ・ポーツマスと日本の位置関係。丸は代表位置で、領域を示しません。
東京・山口・朝鮮半島・満州・フィリピンの位置関係。丸は都市の概略位置または地域の代表位置です。
東京・山口・朝鮮半島・満州・フィリピンの位置関係。丸は都市の概略位置または地域の代表位置です。

どのくらいの時代?

第1次桂内閣、日英同盟、日露戦争、講和、韓国保護国化までの流れ
第1次桂内閣と日露戦争の時代位置を示す年表

その1:最強の「バック」をつけてライバルを牽制

桂太郎(かつらたろう)は、社長に就任した際、お隣のロシアの動きを見てこう考えました。

桂太郎
「最近、ロシアが満州を占領して、朝鮮まで飲み込もうとしてるんだよな。日本一国じゃ、あんな巨大企業(大国)には逆立ちしても勝てねえ。よし、ロシアと仲が悪い業界1位の『イギリス』と手を組む(日英同盟)ぞ! あいつを味方にすれば、ロシアも簡単には手出しできないはずなんだよな!」

何をしたのか・どうなったのか

彼は、ロシアの南下政策を食い止めるため、1902年に当時世界最強だったイギリスと同盟を結びました。

用語日英同盟にちえいどうめい

1902年1月30日に日本とイギリスが結んだ同盟です。一方が一国と戦う場合は中立、二国以上と戦う場合は参戦する仕組みにより、ロシアに対する外交上の抑止力となりました。

これは例えば、「地元の小さな商店が、近所に進出してこようとする巨大スーパーに対抗するために、全国チェーンの最大手とフランチャイズ契約を結んで、バックについてもらった」ような状況です。

側近
「イギリスと同盟!? アジアの日本が世界1位と対等に握手するなんて、前代未聞ですよ!」
桂太郎
「ふふん、これでロシアとの喧嘩(戦争)になっても、一人ぼっちにはならないんだよな!」
補足

同盟の意味:イギリスが最初から日本軍と一緒に戦うという契約ではありません。第三国がロシア側に加わることを抑え、イギリスの金融市場や海上輸送を利用しやすくした点が大きな支えでした。

なかなかパンクな外交術ですが、桂はさらにこう考えました。

その2:社運を賭けた「大勝負」への決断

同盟を組んでもロシアが引かないのを見て、桂はついに最終手段を選びました。

桂太郎
「何度も話し合ったけど、ロシアは朝鮮の権利を譲る気がないみたいだな。このまま待っててもジリ貧だぜ。よし、会社(国)が潰れる覚悟で、こっちからロシアに殴り込み(日露戦争)をかけるぞ! イギリスからおカネも借りたし、準備は万端なんだよな!」

何をしたのか・どうなったのか

1904年、彼はついにロシアとの全面戦争を開始しました。日本は最新の装備と精神力で、予想を裏切って巨大なロシアを圧倒し続けました [1], [2]。

用語日露戦争にちろせんそう

1904年2月に始まった、日本とロシアが主に韓国・満州で争った戦争です。日本は旅順攻囲戦、奉天会戦、日本海海戦などで戦果を挙げましたが、人的・財政的損害は非常に大きく、戦争継続能力は限界に近づいていました。

補足

「圧倒し続けた」だけではない:旅順攻略などでは日本軍も甚大な損害を出し、ロシア軍の主力を完全に壊滅させたわけでもありません。政府は勝っている局面で講和する必要がありました。

これは、「倒産寸前のベンチャー企業が、業界のガリバーを相手に全財産を投じて裁判(戦争)を仕掛け、世界中が『嘘だろ!?』と驚くような逆転劇を演じている」ような状況です。

日英同盟、日露戦争、米国による講和仲介の関係。国アイコンは本土の識別用で、全領土を示すものではありません。
桂太郎とニコライ2世の対立、イギリスとの同盟、アメリカによる日露双方への講和仲介を示す相関図
民衆
「将軍様たちが頑張ってるぞ! でも、これ以上戦争が長引いたら、会社(国)のサイフが空っぽになっちまうぜ!」
桂太郎
「分かってるよ。だから、勝ってるうちに有利な条件で和解(講和)する道を探るんだよな!」

なかなかギリギリの経営判断ですが、この理想を掲げた上で、桂は「裏の根回し」に動きます。

その3:アメリカとの「内密」な市場分割契約

戦争の決着をつける前に、桂は他の一流企業(アメリカ)ともこっそり話をつけました。

桂太郎
「アメリカの担当者(タフト)くん、ちょっといいかな。君たちがフィリピンの支店(領有)を経営するのは邪魔しないから、その代わり日本が朝鮮の支店を独占するのを認めてくれよな(桂・タフト協定)。これで後で文句を言われないようにハンコを押しておこうぜ!」

何をしたのか・どうなったのか

彼は、アメリカによるフィリピン支配を認める代わりに、日本の朝鮮半島支配を認めさせる秘密の合意を取り付けました [4], [2]。

用語桂・タフト覚書かつら・たふとかくしょ

1905年7月、桂太郎と米陸軍長官ウィリアム・タフトが会談し、会談内容を記録した覚書です。正式な条約ではなく、米国のフィリピン統治と、日本が韓国に対して優越的な地位を持つことについて意見を交わしました。

これは例えば、「ライバル他社とシェア争いをしている最中に、別の有力企業と『あっちのエリアは君のもの、こっちは俺のもの』と裏で協定を結んで、将来のトラブルを未然に防いでいる」ような巧妙な営業術です。

アメリカ(タフト)
「いいよ。ロシアを抑えてくれるなら、日本が朝鮮を管理するのに反対はしないんだよな」
桂太郎
「よし、これで外堀は埋まった。あとはロシアと最終交渉(ポーツマス条約)をするだけなんだよな!」
補足

アメリカの立場:アメリカは日露戦争で日本側として参戦した同盟国ではありません。セオドア・ローズヴェルト大統領が日本とロシアの講和を仲介しました。

相当なしぶとさを見せる立ち回りですが、この理想を掲げた上で、ついに決着の時が来ます。

その4:粘り勝ちの「契約成立」とご近所の管理

ついに、アメリカの仲介でロシアとの和解が成立しました。

桂太郎
「ロシアも国内の不祥事(革命)で疲れてるから、ようやくハンコを押したぞ(ポーツマス条約)。おカネ(賠償金)はもらえなかったけど、朝鮮や満州の権利は日本がゲットしたんだ。よし、さっそく朝鮮に『管理事務所(統監府)』を置いて、俺たちの言うことを聞かせる(保護国化)んだよな!」

何をしたのか・どうなったのか

1905年、彼は日露戦争を終結させ、朝鮮半島への支配を確実なものにしました。

用語ポーツマス条約ぽーつますじょうやく

1905年9月5日、米国の仲介で日本の小村寿太郎とロシアのウィッテが調印した講和条約です。ロシアは日本の韓国における指導権を認め、旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道利権、南樺太などを日本へ譲りましたが、賠償金はありませんでした。

これは例えば、「長期にわたる裁判で巨額の勝利金は得られなかったものの、重要な特権(利権)を認めさせ、ライバル店を子会社化して自社の支配下に置いた」ような、「判定勝ち」の結末です。

ポーツマス条約、第2次日韓協約、統監府開設の流れを表す想像図。桂本人による調印や韓国の新設を描いたものではありません。韓国の外交権を奪った協約は講和条約とは別で、伊藤の統監任命は1905年、統監府開設は1906年です。
1905年の講和と韓国の外交権喪失、伊藤博文の初代統監任命から1906年の統監府開設までを示す文字入り図
民衆
「おカネがもらえないなんて、こんなの勝利じゃないぞ! 税金を返せ!」
桂太郎
「うるせえ、世界一流の『一等国』になれたんだから結果オーライなんだよ!」
用語日比谷焼打ち事件ひびややきうちじけん

ポーツマス条約調印日の1905年9月5日、賠償金を得られない講和条件への反対集会をきっかけに東京で起きた大規模な騒擾です。戦費負担や増税への不満も重なり、政府施設・新聞社・交番などが襲撃されました。

用語統監府とうかんふ

第2次日韓協約で韓国の外交権を奪った後、1906年に漢城へ置かれた日本の統治機関です。初代統監には伊藤博文が就任しました。

補足

韓国側から見れば:第2次日韓協約は日本軍の圧力のもとで締結を迫られ、高宗皇帝の署名・批准を欠いていました。「管理」ではなく、外交権を奪う植民地支配拡大の過程として捉える必要があります。

相当な反発(日比谷焼打ち事件)を受ける幕引きですが、この「桂太郎」の粘り強いプロジェクト管理が、近代日本の地位を不動のものにしたのです。

総括

結果:第1次桂太郎内閣は、日英同盟を盾にして日露戦争を戦い抜き、アジアの小国だった日本を世界列強の仲間入り(一等国)させることに成功しました。アメリカとの密約やポーツマス条約を通じて、朝鮮半島や満州での日本の優位を国際的に認めさせ、日本の大陸進出の基盤をガッチリと固めたのです [4], [1], [2]。

一方:この「勝利」は、莫大な借金と多くの犠牲の上に成り立つ「判定勝ち」であり、賠償金が得られなかったことで国民の不満が爆発し、激しい暴動を招きました。また、この時確立した「他国(韓国)を力で管理する」という方針は、現地の激しい抵抗と、のちの国際的な孤立を招く遠い原因となっていくことになったのです [2], [5]。

まとめ:桂太郎(第1次)の意義

まとめ

  • [最強同盟の締結] :世界1位のイギリスと「日英同盟」を結び、外交的な後ろ盾を得て国際社会での発言力を高めた。
  • [日露戦争での粘り勝ち] :大国ロシアを相手に勝利をおさめ、日本をアジア唯一の「一等国」の地位へと押し上げた [6], [1]。
  • [朝鮮支配の確定] :桂・タフト協定や第2次日韓協約により、朝鮮半島を事実上の日本の支配下に置くシステム(統監府)を完成させた [4], [2]。

最後に、この「粘りの社長」が退陣した後、バトンは伊藤博文の跡を継いだ「お公家さん社長」西園寺公望へと渡り、二人が交代で政権を回す「桂園時代」という安定期に入りますが、それはまた別のお話。

この出来事が今後どう評価されるかは、まだ分かりません。 以上、桂がカツら! ロシアに判定勝ちして世界デビューでした。

理解度確認テスト

Q1. 1902年に桂太郎が、ロシアの南下を阻止するために当時世界最強だった国と結んだ同盟は何ですか?


A. 日英同盟

Q2. 1904年から始まり、日本が「判定勝ち」をおさめて世界の一等国の仲間入りをするきっかけとなった戦争は何ですか?


A. 日露戦争

Q3. 1905年の講和条約が結ばれた後、日本が朝鮮半島を保護国とするため、漢城(ソウル)に新しく設置した役所は何ですか?


A. 統監府

用語対応表

新着の「ムダ知識」をメールで
週1回、選りすぐりの疑問だけ届きます。
登録する

※ これまで読んだ記事(お使いのブラウザに記録)は除いて、未読の政権担当者の記事からランダムに1件表示します。