舒明天皇(じょめいてんのう)が政治をしていた時期のイベントについて説明します。跡継ぎ争いの荒波をなんとか乗り切り、海の向こうの巨大帝国に初めて公式の使節を送った、日本外交のスタートラインのお話です。
- 初の遣唐使派遣:犬上御田鍬を代表とする使節団を唐へ送り、日本外交の礎を築いた。
- 百済大寺の建立:仏教を通じて国内のまとまりを示そうとした。
- 豪族優位の継続:蘇我蝦夷ら豪族の力は温存され、のちの政変の火種を残した。
舒明天皇はどんな人?
今からおよそ1400年前、推古天皇が亡くなったあとの日本でリーダーになった人物です。次の天皇候補が2人いる中、有力豪族のゴリ押しによって選ばれた、ある意味「調整型」の天皇でもあります。在位中に、のちの日本外交の基本形となる遣唐使を初めて実現させたことで知られています。
登場する地方や国について




どのくらいの時代?
舒明天皇の時期に起きたこと
1. 後継者レースの「まさかの当選」
舒明天皇は、即位前にこう思っていたかもしれません。
推古天皇が後継者を明確に指名しないまま亡くなったため、有力豪族の蘇我蝦夷が中心となって、複数いた候補の中から舒明天皇を強引に選び出したんです。
これは例えば、創業社長が後継者を決めないまま急死し、社内の実力者(役員)が「次の社長はこの人で」と根回しして決めてしまうような展開です。
なかなか強引な人事ですが、これを踏まえた上で、舒明天皇はさらにこう考えました。
2. 海の向こうの「超大国」とどう付き合うか
それを踏まえた上で、舒明天皇は国際情勢に目を向けました。
当時、中国大陸では隋が滅び、唐という新しい大国が誕生していました。日本はまだ正式な国交を結んでおらず、最新の制度や文化にも出遅れる恐れがあったのです。
推古天皇の時代には隋へ遣隋使を送っていましたが、隋は618年に滅びました。舒明天皇の時代には、新しく成立した唐との関係をあらためて築く必要がありました。
これは例えば、近所に急成長したライバル会社ができたとき、様子見だけでなく思い切って「一度ご挨拶に伺いたい」と正式なアポを取りに行くような判断です。
なかなか思い切った決断ですが、この理想を掲げた上で、彼はこう動きました。
3. 初の「遣唐使」出発
この理想を掲げた上で、舒明天皇は実際に使節団を送り出しました。
630年、犬上御田鍬を代表とする使節団が、日本から初めて正式に唐へ派遣されました。これが「遣唐使」の第一号です。
この使節団を「遣唐使」といいます。
これは例えば、海外進出を狙う会社が、初めて本格的な視察チームを現地へ送り込むような一大プロジェクトです。
なかなか緊張感のある船出ですが、こうして日本は新しい外交の一歩を踏み出しました。
補足:遣唐使とは?
遣唐使は、日本が唐の制度・文化・仏教などを学ぶために派遣した公式使節です。舒明天皇2年の630年に犬上御田鍬らが出発した派遣が最初とされ、その後も長期間にわたって計画されました。
4. 国内固めの「大寺」建立
それを踏まえた上で、舒明天皇は国内の体制固めにも力を入れました。
舒明天皇は百済大寺(くだらのおおでら)という大規模な寺院の建立を進め、天皇の権威と仏教による国のまとまりを示そうとしました。
これは、海外進出と同時に、本社ビルを立派に建て替えて「うちはちゃんとした会社です」とアピールするような動きです。
この国内外への目配りが、次の時代への土台となっていきました。
補足:百済大寺とは?
百済大寺は、舒明天皇が639年に建立を進めた大規模寺院で、現在の奈良県桜井市にある吉備池廃寺がその跡と考えられています。朝廷が主導した初期の大寺院として、天皇を中心とする国づくりと仏教の結び付きを示しました。
結局どうなったのか
結果:舒明天皇は、後継者争いという不安定なスタートを乗り越え、遣唐使の派遣という日本外交の記念すべき一歩を実現しました。これにより、日本は唐の進んだ制度や文化を取り入れる窓口を初めて手に入れたのです。
一方:舒明天皇自身が権力を強く握ったわけではなく、実質的な政治の主導権は引き続き蘇我蝦夷ら豪族が握ったままでした。この「豪族優位」の構図は解消されず、のちに息子の中大兄皇子が蘇我氏を倒す乙巳の変(645年)へとつながっていくことになります。
この出来事を「乙巳の変」といいます。
補足:乙巳の変とは?
645年、中大兄皇子と中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中で倒し、父の蘇我蝦夷も自害へ追い込まれました。舒明天皇の時代から続いていた蘇我氏優位の政治を終わらせ、その後の大化改新へつながる政変です。
まとめ:舒明天皇の時代の意義
- 初の遣唐使派遣:犬上御田鍬を代表とする使節団を唐へ送り、日本外交の礎を築いた。
- 百済大寺の建立:仏教を通じて国内のまとまりを示そうとした。
- 豪族優位の継続:蘇我蝦夷ら豪族の力は温存され、のちの政変の火種を残した。
理解度確認テスト
Q1. 推古天皇の死後、二人の有力候補が争う中で蘇我蝦夷の後押しを受け、630年に初の公式使節を唐へ送った天皇は誰ですか。天皇として即位した後の名前で答えてください。
A. 舒明天皇
Q2. 630年、海を渡って新王朝の制度や文化を学ぶ最初の公式使節団で、代表を務めた人物は誰ですか。
A. 犬上御田鍬
Q3. 639年、天皇の権威と仏教による国のまとまりを示すため、現在の奈良県桜井市付近で建立が進められた大規模寺院を何といいますか。
A. 百済大寺
最後に、この不安定な土台の上に、次の時代では豪族の力があまりに強くなりすぎて、ついに天皇家自身がクーデターに動くことになります。
この出来事が今後どう評価されるかは、まだ分かりません。以上、如才なく一手!遣唐使はじめました、舒明天皇でした。
用語対応表
- 有力豪族のゴリ押しで選ばれた天皇 → 舒明天皇
- 本命だったが選ばれなかった候補 → 山背大兄王(やましろのおおえのおう)
- 人事を主導した実力者 → 蘇我蝦夷(そがのえみし)
- 中国大陸の新しい大国 → 唐(とう)
- 初の公式使節団 → 遣唐使(けんとうし)
- 使節団の代表 → 犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)
- 国のまとまりを示すために建てた寺 → 百済大寺(くだらのおおでら)