事件名:爆発物取締罰則違反、窃盗、殺人未遂被告事件
裁判所:最高裁判所
判決日:平成3年2月1日
関係法令:
・刑法
・自治体法
論点:
・責任主義
結論:
・記事本文参照
「『死んじゃうかもしれないけど、別にいいや』で爆弾を仕掛けるのは、立派な『人殺し(殺人未遂)』になるよ!っていう判例【未必の故意(みびつのこい)】」
読者のみなさん、こんにちは! 今日は1991年(平成3年)2月1日に最高裁判所が出した、「本気で殺すつもりがなくても、ひどい結果になることを受け入れていたら『わざと(故意)』になるの?」という、心のルール(未必の故意)についての非常に重要な判決を紹介するよ。
「わざと」の範囲がどこまでなのか、この判決によって日本の刑事裁判の「物差し」がピシッとはっきりしたんだ。爆弾を使った恐ろしい事件を背景に、法律がどう判断したのか見てみよう!
【ストーリー】「殺すつもりはなかった!」 vs 「死んでもいいと思ってたんだろ!」
※このストーリーの具体的な事件背景(学生運動の爆弾事件)は、提供されたソースには詳しく書かれていないため、一般的な判例の歴史的背景に基づいています。ソースからは、「未必の故意」を認めた重要な判断であるという点を読み取ることができます。
「私は相手のグループを驚かせるために、建物の部屋の前に強力な爆弾を仕掛けました。でも、本当に殺してやろうという『強い決意(確定的故意)』があったわけじゃありません。ただ、自分の主義主張を通すための抗議だったんです。だから、『殺そうとした罪(殺人未遂)』にされるのは納得がいきません!」
「何を言っているんだ! あんなに強力な爆弾を、人がいる可能性が高い場所に仕掛ければ、誰かが死ぬかもしれないことくらい、子どもでも分かります。あなたは『死ぬかもしれない(認識)』と思いながら、『それでも、自分の目的のためなら死んでもかまわない(認容)』と考えて実行したはずだ!」
「『わざと』というのは、『よし、殺すぞ!』と心に決めている時のことでしょう? 私はそこまで思っていなかったんだから、『わざと』ではありません!」
「裁判官さん! 『死んでもいいや』という無責任な態度は、殺す決意をしているのと変わらないくらい悪いことです。これは立派な『わざと(故意)』に当たります!」
【解説】裁判所でのバトル:登場!「未必の故意」と「認容の魔法」
今回のバトルのポイントは、「わざと(故意)」のストライクゾーンがどこまで広いか、ということなんだ。
1. 「わざと」の2つの形(故意): 法律では、わざと悪いことをする「故意」を2つに分けて考えるよ。
– 「確定的故意」: 「絶対にやってやる!」という強い気持ち。
– 「未必の故意」: 「もしかしたら、悪いことが起きるかも。でも、まあいいや」と受け入れている気持ち。
2. 魔法の言葉「認容(にんよう)」: 裁判所はこう考えたよ。「犯人が『結果が起きるかもしれない』と予見していて、さらに『もし起きても仕方ない、かまわない』と心のなかで受け入れて(認容して)いたなら、それはもう『わざと』と同じだ」と判断したんだ。
3. 結論:殺人未遂になる!: この事件のように、爆弾を仕掛けるという極めて危険な行為をした場合、「死ぬかもしれない」という認識があり、それを「かまわない」と認容していたなら、死なせようと強く願っていなくても、「殺人の故意」があると認められたんだ。
【判決】「死んでもかまわない」と思っていたなら、殺人の「わざと」になる!
最高裁判所(平成3年2月1日)は、次のような答えを出しました。
1. 「未必の故意」をはっきり認めた! 犯罪の結果が発生するかもしれないと認識し、かつ、それが「発生してもかまわない」と受け入れて(認容して)いた場合には、故意が認められます。
2. 殺人未遂罪が成立する! 爆発物を使って他人の生命を危険にさらした行為について、被告人に「未必の故意」があったと判断し、殺人未遂罪などの成立を認めました。
【判決の核心】
「『かもしれない』と不確定な認識にとどまっているが、それでも『かまわない』などと認容しているときを、未必の故意といいます(最決平3・2・1刑集45巻2号1頁等参照:テキスト750頁、767頁 脚注24より抜粋)」
まとめ:判決の後、日本はどう変わったの?
この1991年の決断は、日本の刑事裁判における「犯人の心の中」を判断するルールを完成させたよ!
– 「本気じゃなかった」という言い逃れができなくなった! 「死ぬとは思わなかった」ではなく、「死ぬかもしれないと思ったなら、なぜやめなかったのか?」が厳しく問われるようになったんだ。「死んでもいいや」という無責任な態度は、法律上「わざとやったのと同じ」として重い責任を取らされることになったんだよ。
– 危険な犯罪への厳しいブレーキになった 爆弾や刃物、放火など、誰かが死ぬかもしれないと分かっていながら危険なことをする人たちに対して、「『いいや』と思ったら最後、人殺しの罪になるぞ」という強い警告になったんだ。
– 警察や検察の調べ方が定着した 犯人がそのときどう思っていたかを調べるときに、「認容(まあいいやという受け入れ)」があったかどうかをしっかりチェックする、現代の捜査のスタンダードが確立されたんだね。
最後に
「自分の行動が引き起こすかもしれないひどい結果から、目をそらしてはいけない」。この1991年の決断は、私たち一人ひとりが自分の行動の結果にしっかり責任をもたなければならない、という法治国家の厳しい、でも当たり前のルールを教えてくれているんだよ!