いまの日本では、国のトップを当たり前のように「天皇」と呼びます。けれど古代からずっとそうだったわけではありません。もともとのヤマト政権は、有力な豪族たちが連合して成り立つ体制で、その盟主は一般に 大王(おおきみ) と呼ばれていました。
そこから数世代をかけて、豪族どうしのバランスで動く政権は、天皇を頂点にした中央集権国家へと姿を変えていきます。きっかけになったのは、中国・朝鮮半島の大きな変化、国内の権力闘争、そして戦争の敗北でした。
なお、「天皇」という称号がいつ成立したのかについては、現在の歴史学でも細かな議論があります。一般には7世紀後半の天武・持統朝ごろに本格化したと考えられていますが、どの時点を正式な成立とみるかには幅がある、という点は押さえておきたいところです。
– ヤマト政権の「大王」が、どんな立場の支配者だったのかがわかる
– 推古天皇・聖徳太子の改革から大化改新、壬申の乱、大宝律令までの流れがつながる
– なぜ「天皇」という称号が必要になったのかを、国内政治と国際情勢の両面から理解できる
第一幕:そもそも「大王」とは何者だったのか
古代日本の始まりは、いきなり「天皇の国」だったわけではありません。まずは各地の豪族がそれぞれの土地と人々を支配し、そのなかで特に強い勢力が大和地方を中心にまとまりを作っていきました。
うちはこの土地を治めている。
そちらはそちらで民と田畑を持っている。
完全な一枚岩ではないが、強い盟主がいるなら従おう。
私は豪族連合の中心に立つ者である。
祭りも戦も外交も、まずはここを通してもらう。
ヤマト政権の支配者は、後のような絶対君主というより、有力豪族の連合体を束ねる盟主 でした。大王は強い権威を持っていましたが、豪族たちを完全に部下として命令できる体制ではありません。むしろ「みんなの上に立つ一番有力な家」という性格が濃かったのです。
古墳時代のヤマト政権で、盟主的立場の支配者を指す呼称。のちの「天皇」と同じではなく、豪族連合の頂点としての性格が強い。政治・祭祀・軍事を握ってはいたが、豪族たちの協力抜きでは統治が成り立たなかった。
巨大な前方後円墳が各地に築かれたことは、大王の権威が非常に大きかったことを示しています。ただし、それは「国のすみずみまで役所で直接支配した」という意味ではありません。古代前期の統治は、あくまで豪族ネットワークの上に成り立っていました。
第二幕:豪族の国を「官僚の国」に変えたい
豪族どうしが勝手に争っていては、国の形が整わぬ。
もう少し、王権のもとに人を集めねばならぬな。
家柄だけで役目を決めるのではなく、
能力のある者を取り立てる仕組みが必要です。
国としての筋道を作りましょう。
位も十二の段階に分けて、だれがどれほどの役目を担うかをはっきりさせます。
よろしい。私が後ろ盾になる。
ただし改革は、豪族を敵に回しすぎぬよう進めねばならぬ。
6世紀末から7世紀初め、推古天皇・厩戸王(聖徳太子)・蘇我馬子の協力体制のもとで、ヤマト政権は少しずつ中央集権化へ動き始めます。まだこの時点では「天皇国家」が完成したわけではありませんが、豪族中心の政治を改める方向性がはっきりと現れました。
代表例が、603年の 冠位十二階 と、604年の 憲法十七条 です。
役人は家柄だけではなく、功績や能力も見よう。
そして朝廷で働く以上、勝手な私闘より
「和」を大事にしてもらう。
位を十二の段階に分け、だれがどの役目を担うかも見えやすくしよう。
603年に定められた位階制度。豪族の家柄だけではなく、個人の才能や功績に応じて官位を与える発想が打ち出された。後の本格的な官僚制ほど整ってはいないが、豪族社会から官僚社会への一歩とみなされる。
604年に示された、役人の心構えを説く規範。「和を以て貴しとなす」で有名。近代的な憲法ではなく、朝廷の秩序を保ち、天皇を中心に政治を進めるための道徳的・政治的な指針だった。
ここで大事なのは、推古天皇や聖徳太子が 大化改新そのものを行ったわけではない ことです。彼らの時代は、あくまで後の改革の「下地づくり」。豪族社会をそのまま残しては、より大きな国家になれないという問題意識が育った時期でした。
第三幕:クーデターと「公地公民」の理想
改革の芽は出ていましたが、政治の主導権はなお豪族が握っていました。やがて蘇我氏が強大化しすぎると、「このままでは豪族政治に逆戻りだ」という反発が強まっていきます。
蘇我氏が独占する朝廷では、国はまとまらない。
ここでひっくり返す。
一気にやりましょう。
今ここで蘇我入鹿を倒し、政の流れを変えましょう。
645年、乙巳の変 によって蘇我入鹿が倒され、その後に進められた一連の改革が、いわゆる 大化改新 です。ここで掲げられたのが、土地と人民を私有する豪族の世界から、国家がそれらを一元的に把握する世界への転換でした。
土地も民も、豪族が勝手に抱え込む時代は終わりだ。
今後は国がまとめて管理する。
ここでよく出てくる「朝廷」という語は、本来は君主が政治を行う宮廷やその政権そのものを指す言葉です。後の時代には当たり前のように使われますが、時期によって実態や響きが少しずつ違う点にも注意が必要です。
土地(公地)も人民(公民)も、原則として国家の支配下に置くという考え方。実際の運用には長い時間がかかったが、豪族の私有支配を否定し、天皇中心の国家へ向かう強い理念として大化改新以後の政治を方向づけた。
隋や唐では、皇帝を頂点にした大きな官僚国家がつくられているらしい。
朝鮮半島でも国どうしの争いが激しい。
こちらが豪族の寄り合いのままでは、生き残れぬ。
「中国のまねをした」というだけでは不十分です。重要なのは、外交や軍事で対抗するには、税や兵士を安定して集められる仕組みが必要だったことです。そのためには、豪族の私有支配より国家による一元支配のほうが都合がよかったのです。
第四幕:白村江の敗戦が、国家を本気にさせた
理念だけなら、改革が途中で止まることもあります。ところが古代日本には、中央集権化を待ったなしにする事件が起きました。対外戦争での大敗です。
百済を助けるため出兵したが、
白村江で唐・新羅連合軍に大敗した。
これはまずい。次は日本本土が狙われるかもしれぬ。
内輪もめをしている場合ではない。
国防のため、朝廷の命令に従って動かねば。
663年の 白村江(はくすきのえ)の戦い の敗北は、ヤマト政権にとって巨大な衝撃でした。外敵が攻めてくるかもしれないという現実の危機は、中央集権化を一気に進める強力な圧力になります。
九州北部には防衛施設が築かれ、対馬・壱岐・筑紫などで国防体制が強化されました。こうした軍事対応を実行するには、各地の豪族が勝手に動くのではなく、中央の指示で統一的に動く必要があります。つまり敗戦が、「国としてまとまるしかない」状況 を作ったのです。
663年、百済復興を支援した倭・百済連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗した戦い。日本列島に直接侵攻される可能性が強く意識され、防衛体制と中央集権化を急ぐ契機になった。
第五幕:壬申の乱と「天皇」号の確立
ただし、中央集権国家は自動的に生まれるわけではありません。最後は、誰がその頂点に立つのかをめぐる大きな内戦が待っていました。
兄の死後、この国の主導権を他人に渡すわけにはいかぬ。
戦ってでも奪い取る。
672年の壬申の乱に勝利したことで、天武天皇は他の豪族を圧倒する政治基盤を手に入れました。
天智天皇の死後に起きた 壬申の乱 は、単なる後継者争いではありませんでした。大海人皇子(のちの天武天皇)と、大友皇子を中心とする近江朝廷側が争ったこの内戦に勝ったことで、天武天皇は軍事・政治の主導権を一気に掌握し、豪族勢力を抑え込んで、皇族中心の政治体制を強めていきます。
大臣に頼りきる体制では足りぬ。
皇后や皇子たちとともに、
皇族の手で政を動かす。
天武天皇の時代に強まった、皇族を政治の中核に据える体制。豪族の有力大臣に権力を預けるのではなく、皇室そのものに統治権を集中させる狙いがあった。
この時期に、支配者の呼称も 大王 から 天皇 へと変わっていったと考えられています。さらに国号も「倭」から 日本 へ整えられていきました。
豪族の長では足りぬ。
この国の統治者は、もっと普遍的で、
揺るがぬ権威を持たねばならぬ。
ここでの「天皇」は、単なる呼び名の変更ではありません。国内の豪族に対しても、東アジア世界に対しても、この国が一つの統一国家であると示す政治的な看板だったのです。
また天武天皇は、天皇家の由来を神話と結びつける作業も進めさせました。のちの『古事記』『日本書紀』につながる編纂事業は、武力だけではなく 物語によって統治の正当性を固める 試みでもありました。
「天皇」という称号の成立時期には学説上の議論がありますが、少なくとも7世紀後半の天武・持統朝ごろに本格化したとみるのが一般的です。重要なのは、呼称の変更が国家体制の再編とセットだった点です。
第六幕:大宝律令で、仕組みが完成する
制度は作りかけで終わらせぬ。
都を整え、戸籍を整え、国家の骨組みを固める。
そして701年、
法律と行政の仕組みをまとめた
大宝律令 を完成させる。
天武天皇の死後も、持統天皇・文武天皇の時代を通じて制度整備は続き、701年に 大宝律令 が完成します。これにより、官僚制、地方支配、戸籍、税制などが体系的に整えられ、天皇を頂点とする律令国家の骨格が明確になりました。
701年に完成した律令法典。律は刑法、令は行政法にあたる。これにより中央政府の役所や地方支配の仕組みが整理され、天皇中心の律令国家が制度面で完成したとされる。
こうして見ると、「大王から天皇へ」は一日で起きた革命ではありません。豪族連合の盟主だった支配者が、改革、戦争、内乱、制度整備を経ながら、少しずつ 国家そのものの中心 へと変わっていった長い過程だったのです。
– 古代の支配者は最初から「天皇」ではなく、豪族連合の盟主としての 大王(おおきみ) だった
– 推古天皇・聖徳太子の時代に、豪族政治を改める中央集権化の芽が生まれた
– 乙巳の変と大化改新で、土地と人民を国家が把握する 公地公民 の理念が打ち出された
– 白村江の敗戦が、国防のために中央集権化を急ぐ強い動機になった
– 壬申の乱に勝った天武天皇のもとで、天皇 号と皇族中心の政治が確立していった
– 701年の 大宝律令 によって、天皇を頂点とする律令国家の制度が整った