宇多天皇(うだてんのう)が政治をしていた時期のイベントについて説明します。強すぎる部下に「うだうだ」と文句を言われまくったピンチを、インテリな部下の力を借りて逆転しようとした時のお話です。
宇多天皇はどんな人?
今からおよそ1100年前、平安時代の真っ只中に日本のリーダーをしていた人物です。皇族以外で初めて「天皇の代役」をやった藤原氏という最強一族に対抗し、13年後に滅びる大国(唐)を見捨てた合理的な判断力の持ち主でもあります。厄介な権力者から距離を置き、学問の天才・菅原道真(すがわらのみちざね)をスカウトして「自分たちの政治」を取り戻そうとした天皇です。
どのくらいの時代?
宇多天皇の時期に起きたこと
1. 最恐の揚げ足取り「再提出」事件
宇多天皇は、リーダーに就任してまずこう考えました。
新社長(天皇)として、ベテラン専務の基経(藤原基経)さんに『阿衡(あこう)』っていうカッコいい役職をあげるよ! これでこれからもよろしくね!
彼は就任早々、実力者の基経に気を遣って、丁寧な任命書を送りました。
これは例えば、新しく来た社長が、「相談役」として大物役員を指名し、花を持たせようとしたような感じです。
おい、この『阿衡』って言葉、中国では『名誉職だけど実権なし』って意味だぞ! 俺をバカにしてんのか! 納得するまで仕事はボイコットだ!
ええっ、そんなつもりじゃ……。わかりました、書き直しますから、早く出社してくださいよ……
基経はわざと言葉にクレームをつけて、半年以上も仕事をストップさせ、天皇に謝らせて書類を「再提出」させました。これが「阿衡の紛議(あこうのふんぎ)」です。
なかなか理不尽なスタートですが、宇多天皇はさらにこう考えました。

2. 学問の天才を「コンサル」に大抜擢
それを踏まえた上で、宇多天皇はさらにこう考えました。
基経さんが死ぬまで散々いじめられたけど、もう我慢できん! 藤原氏のわがままはこりごりだ。これからは家柄じゃなくて、頭のいいやつを重用するぞ。道真(菅原道真)、お前を秘書長官(蔵人頭)にするから、俺を支えてくれ!
彼は最強の部下(基経)がいなくなった隙に、藤原氏に対抗できる「学問の天才」をスカウトして、自分中心の政治(親政)を始めました。
これは、「代々会社を牛耳ってきた株主一族」の干渉を断ち切るために、社長が外部から超優秀な学者(道真)を呼んできて、自分直属のチームを作ったような状況です。
おいおい、学者の道真がいきなり出世するなんて聞いてないぞ。面白くないなあ……
天皇のご期待に応えて、合理的でスマートな国作りをお手伝いしますよ。
周囲はザワつきましたが、宇多天皇はさらにこう考えました。
3. 沈む泥舟から「爆速撤退」の決断
この理想を掲げた上で、宇多天皇はこう考えました。
天皇、今の『唐(中国)』ってもうボロボロで滅びそうですよ。あんな危ない場所に、わざわざ命をかけてまで最新文化を習いに行くメリット、もうなくないですか? 遠征は中止しましょう!
確かに。道真が言うなら間違いないな。よし、中国への出張(遣唐使)はこれでおしまいだ!
当時、当たり前だった中国への使節(遣唐使)を、道真のアドバイスを受けてキッパリと中止させました。
これは、「海外の超有名企業に研修に行け」と言われた社員が、「あそこもう倒産寸前だし、治安も最悪だから行く意味ないですよ。自力で頑張りましょう」と社長にプレゼンして、海外研修制度を全廃したような感じです。
え、今までずっと行ってたのに、行かないんですか!?
無駄なリスクは取らない。これからは日本国内の充実に力を入れるぞ。
実際、中止からわずか13年後に唐は本当に滅亡したので、この読みは完璧でした。この決定こそが「遣唐使の廃止」です。
894年、宇多天皇は菅原道真の建議を受け、それまで200年以上続いていた唐(中国)への使節・遣唐使の派遣を停止した。当時の唐は内乱や財政難で急速に衰退しており、実際に907年に滅亡することになる。この決定により、中国からの文物流入が減少し、日本独自の文化(国風文化)が育つ土壌が形成された。合理的な判断力に基づくこの決断は、後の平安文化の発展に大きな影響を与えることになった。
4. 日本ブランドの確立と「プロ用心棒」誕生
さらにそれを踏まえた上で、宇多天皇はこう言いました。
中国のマネをするのをやめたら、日本独自の文化が育ってきたな! 治安の方も、最近は地方の有力者が武装して『侍』になってるらしい。宮中の警護に、弓矢のうまいプロの用心棒チームを雇うぞ!
中国の影響が弱まったことで日本風の文化(国風文化)が進む一方、宮廷の警備のために「滝口の武士(たきぐちのぶし)」という専門組織を作りました。
これは、「海外ブランドのコピー」を卒業して自社オリジナル製品に集中し、さらに警備をバイトに任せず「プロの警備会社」に委託し始めたような進化です。

中国風もいいけど、日本風も落ち着くなあ。あと、あのガードマンたち(武士)、なんか強そうでカッコいいじゃん。
これで日本のアイデンティティもセキュリティもバッチリだね。
本来は「人に仕える者」という意味だった「侍(さむらい)」たちが、歴史の表舞台に顔を出し始めた瞬間でした。
侍の起源について
「侍」は、身分の高い人のそばに仕えるという意味の「さぶらう」から生まれた言葉で、もともとは武人だけを指す名称ではありませんでした。平安時代になると、地方で土地や治安を守るために武装した豪族・有力農民と、都で天皇や貴族の警護にあたる人々が成長し、しだいに「武士」と呼ばれる層を形づくっていきます。
宇多天皇が889年に置いたとされる「滝口の武士」は、武芸に優れた者が宮中の警護を専門に担った代表例です。ただし、侍や武士は一つの組織から突然生まれたのではなく、地方の武装勢力や朝廷の武官、貴族の警護役など複数の流れが重なって成立したと考えられています。
結局どうなったのか
結果:宇多天皇は、藤原氏による「天皇を言いなりにする政治」をリセットしようとし、菅原道真という天才をパートナーに選ぶことで、一時的に自分たちのリーダーシップを取り戻すことに成功しました。彼の決断で遣唐使をストップさせたことが、後の「日本らしい文化」が花開く大きなきっかけとなったのです。
一方:この「道真のえこひいき」は、藤原氏の恨みをさらに買うことになりました。彼が引退して次の代(醍醐天皇)になると、すぐに藤原氏が猛烈なリベンジを開始し、道真は「謀反の疑い」をかけられて太宰府に左遷されてしまうという悲劇を招いてしまったのです。
まとめ:宇多天皇の時代の意義
最後に、この「道真の大抜擢」が、次の時代に藤原氏による壮絶なリベンジ(昌泰の変)を引き起こすことになりますが、それはまた別のお話。
この出来事が今後どう評価されるかは、まだ分かりません。
理解度確認テスト
Q1. 宇多天皇が藤原基経に送った任命文書の言葉をめぐり、半年以上も政務がストップした事件の名前は?
A. 阿衡の紛議
Q2. 宇多天皇が藤原氏に対抗するため、家柄ではなく実力を重視して秘書長官に抜擢した学者の名前は?
A. 菅原道真
Q3. 894年、宇多天皇が衰退する中国への使節の派遣を停止した決断の名前は?
A. 遣唐使の廃止
人物対応表
- 阿衡の紛議(あこうのふんぎ):任命文書の言葉をめぐる大騒動
- 親政(しんせい):天皇自らが政治をすること
- 蔵人頭(くろうどのとう):天皇の秘書長官
- 遣唐使(けんとうし):中国(唐)への使節
- 国風化(こくふうか):日本独自の文化の流れ
- 滝口の武士(たきぐちのぶし):宮中の警備にあたった武士
- 侍(さむらい):人に仕える者