※「原(はら)」と「ハラを決める(覚悟を決める)」をかけ、日本で初めての本格的な政党内閣を組織し、強い覚悟で政治を動かしたことを表しています。
この人物が政治をしていた時期のイベントについて説明します。タイトルの約束どおり、「ご飯が買えない」と怒った社員(国民)たちが暴動を起こす中、ついに「現場のリーダー」である原敬が社長に抜擢され、自分たちのチーム(政党)を中心とした「本格的な経営」を始めたものの、最後は理想と現実の板挟みの中で悲劇的な最期を迎えてしまった時のお話です。
原敬はどんな人?
今からおよそ110年前、岩手県出身で第19代の日本のトップ(内閣総理大臣)になった男性です。 「爵位(貴族のランク)」を持たない初めての首相として「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれ、国民から絶大な人気を誇りました。 選挙で選ばれたメンバー(衆議院)を大臣のほとんどに起用する「本格的政党内閣」を日本で初めて完成させた、大正時代の超やり手プロデューサーです。
在職期間:原内閣は1918年9月29日から1921年11月4日まで、首相官邸の数え方で1133日間です。「平民宰相」は無爵位という族籍上の意味で、原自身は旧盛岡藩士の家に生まれました。
登場する地方や国について
どのくらいの時代?
その1:ライス・パニックによる「現場リーダー」への交代劇
原敬(はらたかし)が社長(総理大臣)に指名される直前、会社(日本)は大変なことになっていました。
何をしたのか・どうなったのか
彼は1918年、米騒動によって前の内閣が倒れた直後、衆議院で一番勢力のあった「立憲政友会」のトップとして首相に就任しました。
これは例えば、「創業以来、エリート役員たちが独裁していた会社で、無理な事業計画のせいで社員食堂の値段が10倍になり、全社員がストライキを起こしてパニックになったので、ついに現場で一番支持されている『部長(原敬)』が社長に抜擢された」ような状況です。
なかなかドラマチックなスタートではありますが、原はさらにこう考えました。
その2:ほぼ全員が「自前チーム」の本格経営リリース
社長になった原は、まず経営陣(閣僚)を自分たちのメンバーで固めることにしました。
何をしたのか・どうなったのか
彼は、主要な大臣のほとんどを自分の所属する政党から選び、意見の通りやすい組織を作り上げました。
衆議院第一党の総裁が首相となり、その党を政権の主要基盤とした内閣です。原内閣では外務・陸軍・海軍を除く閣僚を政友会員が占めました。第1次大隈内閣など先例があるため、「初の政党内閣」ではなく「初の本格的政党内閣」と表現します。
これは、「新しく就任した社長が、それまでの天下り役員を一掃して、自分の信頼できる部下たちを専務や常務に並べ、『今日から現場の声をダイレクトに反映する経営をやるぞ!』と宣言した」ような状況です。

なかなかアグレッシブなチーム作りですが、この理想を掲げた上で、原は次に「事業拡大」へ乗り出します。
その3:地方への「バラマキ」積極投資プランの実行
組織を固めた原は、会社の業績(国力)を上げるための大型プロジェクトを発表しました。
何をしたのか・どうなったのか
彼は積極的な財政出動を行い、公共事業を通じて自分の支持基盤である地方の有力者たちを喜ばせようとしました。
原内閣が掲げた教育の充実、交通機関の整備、国防の充実、産業・貿易の振興です。高等教育機関の拡張、鉄道網整備などを進め、地方の利益と政友会の支持基盤を結びつけました。
これは、「社長が『最新のネットワーク(鉄道)と研修センター(学校)を全支店に作るぞ!』と大盤振る舞いし、地方の支店長たちに恩を売ることで、社内での自分の地位を盤石にしている」ような、かなり計算高い経営術です。
相当なやり手ぶりを見せますが、この理想(?)を掲げた上で、現場からは「別の要求」が突きつけられます。
その4:選挙の「会費」値下げと全社員投票の拒否
事業が進む中、若手社員や一般社員(民衆)から「俺たちにも投票させろ!」という強い要望が出てきました。
何をしたのか・どうなったのか
彼は1919年、選挙権を与える納税額を10円から3円に引き下げましたが、全ての男性に権利を認める「普通選挙法」には強く反対し続けました。
有権者は約4倍:1919年の衆議院議員選挙法改正では直接国税納税資格を10円から3円へ下げ、選挙区も小選挙区制へ変更しました。有権者は大きく増えましたが、25歳以上のすべての男性へ選挙権を認める普通選挙は1925年まで実現しませんでした。
これは例えば、「『誰でも社長を選べるようにして!』と騒ぐ一般社員に対し、社長が『わかった、ファンクラブの入会金を1万円から3千円に値下げしてやる。これで会員は2倍以上に増えるだろ? でも、入会金ゼロは認めないよ』と、自分に都合のいい範囲でしか権利を広げない」ような、非常にしたたかな対応です。
{相関図の概要案:中央で「3円」と書かれた看板を持つ原敬。その前で「無料(普通選挙)にしろ!」と叫ぶ労働者や学生たち。原の背後では「自分たちの特権が守られた」と安心する地主たちの図}
かなり現場との温度差が広がっていきますが、この理想を掲げた上で、会社に「最悪の事態」が訪れます。
その5:バブル崩壊と東京駅での「衝撃のラスト」
世界の巨大な喧嘩(第一次世界大戦)が終わり、日本には厳しい景気後退がやってきました。
何をしたのか・どうなったのか
大戦後の不況(戦後恐慌)や政治腐敗への批判、そして普通選挙を拒否したことへの怒りが重なり、原へのバッシングは最高潮に達しました。
これは例えば、「積極経営で一流企業に見せていたものの、世界的な不況でボーナスがカットされ、さらに裏金スキャンダルが発覚して、社長の支持率が急落。出勤途中(駅)で暴漢に襲われる」ような、あまりにも悲劇的な結末です。
1921年、原敬は東京駅で一人の若者に刺され、志半ばでこの世を去りました。
暗殺:1921年11月4日、原は立憲政友会近畿大会へ向かうため東京駅に到着し、大塚駅の転轍手だった中岡艮一に刺されました。現職首相の暗殺は憲政史上初めてで、政界に大きな衝撃を与えました。
相当な衝撃を残す幕引きですが、この「原敬」の本格的な政党内閣の誕生こそが、日本が「話し合いの政治」へと進む大きな第一歩となったのです。
総括
結果:原敬は、日本初の「本格的政党内閣」を成立させ、選挙で選ばれたメンバーが国を動かすという新しいスタイルを定着させました。積極的なインフラ投資(四大政綱)によって国の近代化を加速させ、納税資格の引き下げによって有権者を大幅に増やした功績は極めて大きいです。しかし、彼が作ったシステムは、結局のところ地主や資本家といった「お金持ち」を優遇するものであり、一般庶民が求めた「普通選挙」を拒み続けたことで、最終的には国民の激しい怒りと不信感を招く結果となりました。
一方:彼の暗殺後、日本の政党政治は一時的に混乱しますが、彼が証明した「政党の支持なしには国を動かせない」という現実は、のちに「普通選挙法」の成立や、より民主的な「憲政の常道」と呼ばれる時代の扉を押し開くことになりました。彼の「ハラを決めた」独裁的な手腕が、結果として日本の民主主義を次のステージへと引きずり出したのです。
まとめ:原敬の意義
- [本格的政党内閣の完成] :陸海外相以外をすべて所属政党から選び、選挙で選ばれた社員(政党)が国を動かす「本格的な経営」をスタートさせた。
- [四大政綱の積極投資] :鉄道や教育への大規模な公共事業を通じて、地方を活性化させつつ、政党の支持基盤(ファン)をガッチリ固めた。
- [納税資格の引き下げ] :投票に必要な税金を3円に下げ、選挙に参加できる人を倍以上に増やしたが、全員参加(普通選挙)は拒否した。
最後に、この「平民社長」が駅で倒れた後、会社は再び「長老たちの選んだ社長(高橋是清や加藤友三郎ら)」へと引き継がれ、不景気と国際協調の荒波に揉まれていきますが、それはまた別のお話。
この出来事が今後どう評価されるかは、まだ分かりません。 以上、原(はら)がハラを決めた! 本格的な社員経営と平民社長のラストでした。
理解度確認テスト
Q1. 原敬が1918年に組織した、陸海外相以外の閣僚を衆議院の第一党から任命した、日本初とされる内閣の形式を何といいますか?
A. 本格的政党内閣(または政党内閣)
Q2. 爵位を持たない衆議院議員として初めて首相になった原敬が、国民から親しまれて呼ばれたニックネームは何ですか?
A. 平民宰相
Q3. 原敬内閣が鉄道や教育などへの大規模な公共事業として掲げた、4つの柱からなる事業計画を何といいますか?
A. 四大政綱
用語対応表
- 内閣総理大臣(原敬):19代目の社長
- 本格的政党内閣:現場リーダーのチーム経営
- 米騒動:お米の値段アップによる暴動
- 平民宰相:爵位を持たない社長
- 政党(立憲政友会):社員の代表チーム
- 四大政綱:大規模な事業計画案
- 地主(または資本家):地方の有力な支店長たち
- 納税資格(納税額):ファンクラブの会費
- 普通選挙(法):全社員による投票権
- 第一次世界大戦:世界の巨大な喧嘩