この人物が政治をしていた時期のイベントについて説明します。紀元前202年に「前漢」が成立して以来、北の遊牧民族にずっといじめられ、ペコペコし続けてきた漢王朝が、いかにして「最強の帝国」へと変貌し、領土を広げていったのか、その野心あふれる物語を見ていきましょう。
- ずっとナメられていた「匈奴」を、なぜボコボコに叩きのめすと決めたのか
- 挟み撃ちの味方を探しに西の果てまで行った、張騫(ちょうけん)の「超ハードな旅」
- 派手な戦争を続けるために、国民から効率よくお金を集めた「商売の仕組み」
武帝はどんな人?
今からおよそ2100年前、中国の前漢(ぜんかん)時代の第7代皇帝です。それまで守りに徹していた漢の姿勢を180度変え、圧倒的な武力で周辺諸国を次々と征服しました。中国の皇帝としては歴代2位の「54年」という長期にわたって君臨し、領土を最大に広げただけでなく、儒教(じゅきょう)を国の公式な教養にするなど、現代まで続く「中国のカタチ」を完成させたパワフルなリーダーです。
登場する地方や国について

この人物が生きた時代について
建国以来の屈辱を晴らせ! 匈奴討伐
紀元前202年に「前漢(ぜんかん)」が成立して以来、中国は北方の強力な遊牧民族である「匈奴(きょうど)」に対し、毎年たくさんの絹や食べ物を贈って「攻撃しないでください」とお願いし続ける、非常に情けない関係にありました。これは建国者の劉邦が匈奴に大敗したことがきっかけでした。武帝はこの弱腰な方針をゴミ箱に捨て、圧倒的な武力によって彼らを北の果てまで追い払う決断を下しました。
これは例えば、学校で代々不良グループにパンを買いに行かされていた内気な一族の跡取りが、夏休みに死ぬほど筋トレして「今日から立場逆転だ、表へ出ろ!」と道場破りに乗り込むようなものです。武帝は国中の馬と兵士をかき集め、守りから攻めへと完全に切り替えました。
なかなか好戦的なデビュー戦ではありますが、武帝はただ力で押すだけでなく、さらに巧妙な一手を考えつきました。この理想を掲げた上で、武帝はさらにこう考えました。
図の「武帝→役人:軍事費の負担」は、武帝が役人個人に軍事費を払わせたという意味ではありません。匈奴への遠征が繰り返されると、兵士の給料だけでなく、食糧・馬・武器・輸送にも莫大なお金が必要になります。そのため朝廷の役人たちは、遠征を続けるための財源を確保するよう求められ、国庫のやりくりに苦しみました。この財政難への対策が、次に説明する塩・鉄の専売制などにつながります。
「はさみうち」を狙え! 張騫の大冒険
武帝は匈奴を確実に仕留めるため、西域にある「大月氏(だいげつし)」という国に味方になってもらう作戦を立てました。しかし、そこへ行くには敵である匈奴の陣地のど真ん中を突っ切らなければなりません。武帝はこの超ハードな任務を、部下の「張騫(ちょうけん)」に託したのです。
これは例えば、どうしても倒したいライバル校に勝つために、かつてそのライバルにこてんぱんにされた転校生を探しに、「敵のヤンキーがたむろする公園」をチャリで爆走して裏口まで向かわせるようなものです。案の定、張騫は途中で匈奴に捕まり、10年以上も捕虜として拘束されるという悲劇に見舞われました。しかし彼は隙を見て脱出し、大月氏へとたどり着きました。
ところが、大月氏はすでに西方のバクトリア地方へ移り、豊かな土地を支配して安定した生活を手に入れていました。かつて匈奴に国王を殺された恨みはあっても、遠い漢と手を組んで再び戦争を始めるより、今の平穏を守る方を選んだのです。張騫は大月氏のもとに約1年間滞在して説得を続けましたが、匈奴を挟み撃ちにする軍事同盟は、結局結べませんでした。
なかなかに過酷な出張ではありますが、この張騫の執念が、後に中国と西方の世界を繋ぐ大きなきっかけとなりました。それを踏まえた上で、武帝はさらなる現実に直面します。
張騫は帰路でも再び匈奴に捕らえられましたが、内部の混乱に乗じて脱出し、出発から十数年を経て漢へ帰還しました。最初の目的だった同盟づくりには失敗したものの、彼が持ち帰った西域の国々・交通路・産物・優れた馬についての情報は、漢が中央アジアへ進出し、のちにシルクロードへつながる交流を広げる重要な手がかりになりました。

大月氏との同盟は実現しませんでしたが、武帝は匈奴への攻勢を止めませんでした。張騫の派遣と前後して、武帝は将軍の「衛青(えいせい)」や「霍去病(かくきょへい)」を何度も北方へ送り、匈奴軍を北へ押し戻していきます。紀元前121年ごろには西域へ通じる「河西回廊(かせいかいろう)」を押さえ、前漢の領域と影響力を大きく広げました。
つまり、次の武帝の「匈奴はぶっ飛ばしたし」という発言は、一連の遠征で漢が優勢になり、領土を広げたことを自慢しているわけです。ただし、匈奴そのものを完全に滅ぼしたわけではありません。そして、長年の大遠征には莫大な軍事費がかかり、勝利の裏側で国の財政は急速に苦しくなっていました。
戦争はお金がかかる! 「専売制」で荒稼ぎ
武帝の派手な軍事遠征によって前漢の領土は最大になりましたが、引き換えに国の貯金は底をつき、深刻な財政難に陥りました。そこで武帝は、国民に直接重い税をかけるのではなく、生活に欠かせない物資を国が独占して販売する「専売制(せんばいせい)」という仕組みを導入しました。
これは例えば、部活動で高い道具を買いすぎて部費がなくなった時に、「明日から部室で売るポカリスエットは定価の3倍。他の場所で買うのは禁止」という厳しいルールを作って、無理やり部費を稼ぎ出すようなものです。武帝はさらに、新しく「五銖銭(ごしゅせん)」という硬貨を大量に発行し、お金の流通をコントロールすることで、強力に経済を支配しました。
なかなかにエグい集金システムではありますが、武帝はこの資金力で巨大な帝国を維持し続けました。この理想を掲げた上で、武帝はさらにこう考えました。
頭の中も統一! 儒学(じゅがく)の官学化
広大な帝国をひとりで支配するためには、武力やお金だけでなく、人々(特に役人)を納得させる「理論」が必要でした。そこで武帝は、思想家の董仲舒(とうちゅうじょ)の提案を受け、「儒学(じゅがく)」を国の公式な学問(官学)として採用しました。儒学は「親や目上の人を敬え」という上下関係を重んじる教えなので、皇帝による支配を正当化するのにぴったりだったのです。
これは例えば、校則がバラバラで荒れている学校に、「先輩には絶対服従、先生の言うことは神の言葉」という超強力な道徳の授業を全クラスに導入し、そのテストに合格した生徒だけを生徒会役員にするようなものです。武帝は「五経博士(ごきょうはかせ)」という専門の先生を置き、エリートたちに儒学の教養を叩き込みました。
なかなか計算高い統治戦略ですが、これによって武帝は、中国の政治と教養のスタイルを決定づけました。こうして、武力・経済・思想のすべてを握った武帝の時代は、漢王朝の黄金期として歴史に刻まれることになります。

総括
結果:武帝は、それまで受け身だった対外政策を攻撃的な「積極拡大」へと転換し、匈奴を追い払って漢の領域を最大に広げることに成功しました。朝鮮に「楽浪郡(らくろうぐん)」を置くなど支配を広げ、専売制による経済支配や儒学の官学化というシステムを確立したことで、漢王朝がその後400年近く続くための強力な「帝国の骨組み」をつくり上げました。当初の「漢の威厳を見せつける」という目的は、領土の拡大と皇帝権力の強化という形で、完璧に達成されたと言えます。
一方:あまりにも長期間にわたる派手な戦争と、塩などの生活必需品を独占する政策は、民衆の生活を激しく圧迫しました。重い負担に耐えかねた民衆の間では不満が溜まり、武帝の晩年には各地で「反乱」の兆しが見え始めるなど、栄華の裏で帝国の寿命を縮めるほどのダメージを蓄積させてしまったという、負の側面も持っています。
- 最大領土の達成:匈奴を北へ押し返し、朝鮮(楽浪郡)やベトナム、西域へと支配を広げ、「最強の帝国」を築きました。
- 経済支配の確立:塩・鉄・酒の「専売制」や五銖銭の発行により、戦争を支えるための強力な集金システムをつくり上げました。
- 儒学による思想統一:董仲舒の提案で儒学を「官学化」し、皇帝への忠誠を基本とする中国政治の伝統を完成させました。
理解度確認テスト
Q1. 武帝に命じられ、匈奴を挟み撃ちにする同盟を組むために西域の大月氏へ派遣された、シルクロード開拓のきっかけを作った人物は誰ですか?
A. 張騫
Q2. 武帝が軍事費をまかなうために実施した、塩・鉄・酒の販売を国が独占する仕組みを何といいますか?
A. 専売制
Q3. 武帝が発行し、その後数百年にわたって中国やその周辺で広く使われることになった、重さが名前の由来である標準的な銅貨は何ですか?
A. 五銖銭
武帝が築いた強大な帝国のシステムは、その後の中国の歴代王朝にとっての「教科書」のような存在になりました。しかし、あまりにも高い理想と激しい戦争がもたらした「疲れ」が、この後、漢王朝をどのような混乱に導いていくのかは、まだ誰にもわかりませんでした。
以上、【前漢時代・武帝】武帝(ぶてい)が、ぶって(ぶって)追い払う! 「匈奴」をでした。
用語対応表
- 前漢 → 紀元前202年に劉邦が建てた中国の王朝。武帝の時代に全盛期を迎えた。
- 匈奴 → モンゴル高原を中心に活動した強力な騎馬遊牧民族。漢の最大の宿敵。
- 張騫 → 武帝によって西域へ派遣された役人。西方の情報を汉にもたらした。
- 大月氏 → 匈奴に敗れて西方へ逃れた民族。漢と同盟を組む交渉相手。
- 専売制 → 特定の商品の販売を国家が独占する仕組み。武帝は塩・鉄・酒を対象とした。
- 五銖銭 → 武帝が発行した標準的な銅貨。重さが名前の由来。
- 儒学の官学化 → 儒教を国の公式な教養とし、政治の基本理念とすること。
- 楽浪郡 → 武帝が朝鮮半島を征服した後に設置した4つの郡のひとつ。