日本の近代史を語るうえで、アメリカとの関係は何度も歴史の転換点に登場します。黒船で「開国」させられ、いったんは仲介者として頼り、やがて全面戦争に突入し、敗戦後は占領され、いつのまにか同盟国に ── と、これだけ立場が入れ替わる二国関係は世界史でも珍しい。
本記事ではその150年あまりを、ざっくりと追いかけます。
★ この記事でわかること
– 幕末の開国から現代まで、日米関係の主要イベントを時系列で把握できる
– 「不平等条約」「ポーツマス条約」「ABCD包囲陣」「サンフランシスコ平和条約」など、教科書用語が前後の文脈で理解できる
– なぜ戦争した相手と、同盟国になれたのか ── その流れがざっくり掴める

第一幕:幕末 ── 黒船、来る
ペリー
大統領フィルモアの命令で来たよ。
鎖国、もうやめにしようよ。
うちの捕鯨船と商船のために、港を開けてくれ。
返事は 来年 聞きに来るから、よろしく。
幕府役人
……4隻の 黒船。
大砲の数を、数えるのも嫌である。
ペリー
(1年後)約束どおり、戻ってきた。
幕府役人
下田と箱館(函館)を開きます。
日米和親条約、ということで、なにとぞ。
ハリス
和親だけでは足りん。
こんどは 通商 をやろう。
日本にいる米国人が罪を犯したら、米国の領事が裁く。
関税は、日本では勝手に決めさせない。
それでよろしく。
幕府役人
よろしくはないが、断れる状況でもない。
日米修好通商条約、調印いたします。
用語不平等条約ふびょうどうじょうやく
日米修好通商条約(1858年)には 領事裁判権(在日アメリカ人の犯罪を日本の法律で裁けない)と 関税自主権の欠如(日本が自由に関税を決められない)が含まれていた。これらは日本に著しく不利で、後の 条約改正 交渉が明治政府の最大級の外交課題となる。改正が完全に達成されたのは、ペリー来航から半世紀以上経った1911年。
第二幕:明治・大正 ── 仲介者としてのアメリカ
ナレーター
ところでこの頃、日本はロシアと戦争をしていた。
日露戦争(1904〜1905)である。
満州と朝鮮半島の権益をめぐる衝突で、
日本は奉天会戦と日本海海戦で勝利を重ねたものの、
国力はもう限界に近づいていた。
T.ローズヴェルト
日露戦争、そろそろ手打ちにしてはどうかね。
ニューハンプシャー州のポーツマスで、講和会議をやろう。
仲介は私が引き受けよう。
小村寿太郎
ありがたい。
ただし賠償金が取れぬのは、国民に説明が難しい。
(1905年:ポーツマス条約 締結)
用語ポーツマス条約ポーツマスじょうやく
1905年、アメリカ・ニューハンプシャー州のポーツマスで結ばれた 日露戦争の講和条約。仲介役は当時のアメリカ大統領セオドア・ローズヴェルトで、この功績で ノーベル平和賞 を受賞している。日本は南樺太・遼東半島の租借権・南満州鉄道の利権・韓国における優越権などを獲得したが、賠償金は取れなかった。莫大な戦費と多くの戦死者を出した日本国民は強く反発し、東京では 日比谷焼打事件 が発生。日本が「アジアの大国」として国際社会に認知される一方、国内世論との乖離を残した条約となった。
T.ローズヴェルト
ついでに、もうひとつ整理しておこう。
アメリカは フィリピン を取る。
日本は 韓国 を保護国化していい。
お互いの縄張りは、邪魔しない。
(1905年:桂・タフト協定)
小村寿太郎
(第一次大戦中)中国における権益についても、
お互いに利害を調整しておきたい。
(1917年:石井・ランシング協定)
用語石井・ランシング協定いしい・ランシングきょうてい
1917年、第一次世界大戦中に締結された日米間の協定。日本側全権の石井菊次郎と、アメリカ国務長官ロバート・ランシングが交換公文の形で取り交わした。中国に対するアメリカの「門戸開放主義」を確認しつつ、地理的近接ゆえに日本が中国に 特殊権益 を有することを米側が認めた点が画期。日本にとっては中国進出の足場を国際的に承認させた成果だったが、1923年の 九カ国条約 発効に伴って廃棄された。
T.ローズヴェルト
(戦後、後継大統領が)
戦艦の数を減らそうじゃないか。
米・英・日 = 5・5・3 でどうか。
太平洋の秩序も、ここで決めておく。
(1921年:ワシントン会議)
補足
ワシントン会議で決まった「5・5・3」という海軍比率は、のちに日本の軍部から「日本だけ低く抑え込まれている」と強く反発を受け、1934年に日本は条約を破棄します。国際協調の枠組みが、じわじわとひび割れていく入口の会議でした。
ワシントン会議で決まった「5・5・3」という海軍比率は、のちに日本の軍部から「日本だけ低く抑え込まれている」と強く反発を受け、1934年に日本は条約を破棄します。国際協調の枠組みが、じわじわとひび割れていく入口の会議でした。
第三幕:昭和前期 ── 対立、そして真珠湾
一般の日本人
世界恐慌で、景気がとにかく悪い。
仕事もない、米も買えない。
東條英機
活路は 大陸 にある。
満州は、日本の生命線である。
(1931年:満州事変)
F.ローズヴェルト
それは、国際秩序を乱す動きだ。アメリカは認めない。
中国を支援する。
そして日本には、石油とくず鉄の輸出を止める。
英・中・蘭にも声をかけた。
(1941年:ABCD包囲陣)
東條英機
石油が止まれば、艦隊も飛行機も動かなくなる。
外交交渉で打開するか、開戦するか ──
(1941年12月、開戦の決定)
東條英機
ハワイ・真珠湾 を攻撃せよ。
用語真珠湾攻撃しんじゅわんこうげき
1941年12月8日(日本時間)、ハワイ・オアフ島の 真珠湾(パールハーバー)に停泊するアメリカ太平洋艦隊への日本海軍による奇襲攻撃。空母6隻から発進した約350機の艦載機が、戦艦・航空機に大打撃を与えた。日本側の宣戦布告通告がアメリカに届いたのは攻撃開始後だったため、「だまし討ち」と非難される。それまで参戦に消極的だったアメリカ世論は一気に対日戦争支持へ傾き、太平洋戦争が本格的に始まった。
用語ABCD包囲陣エービーシーディーほういじん
1941年、日本の南方進出に対し、America(米)・Britain(英)・China(中)・Dutch(蘭)の4ヶ国が日本への 石油・くず鉄の輸出禁止 など経済封鎖を実施したことを指す当時の呼称。資源の乏しい日本にとって石油の途絶は致命的で、開戦を決断する直接的な引き金となった。
トルーマン
(1945年8月、後継大統領として)
ポツダム宣言、まだ受け入れぬのか。
ならば広島と長崎に、原子爆弾 を投下するぞ。
一般の日本人
ポツダム宣言を受諾します。
無条件降伏、ということになります。
用語ポツダム宣言ポツダムせんげん
1945年7月、ベルリン郊外のポツダムで開かれた米・英・中(のちにソ連も加わる)首脳会談で発表された、日本に対する 無条件降伏 の勧告。軍国主義の除去、戦争犯罪人の処罰、民主主義の確立、領土の制限(本州・北海道・九州・四国とその周辺諸島に限定)などが条件として示された。日本政府は当初「黙殺」したとされ、これが連合国側に「拒否」と受け取られて広島・長崎への原爆投下に至ったとする見方もある。8月14日に受諾、翌15日に玉音放送 で国民に伝えられた。
第四幕:戦後・占領期 ── 敵から同盟国へ
マッカーサー
連合国軍最高司令官として、本日より日本を占領する。
軍は解体、財閥は分割、農地は小作人に再分配。
女性にも参政権を与える。
そして、新しい憲法 を作っていただく。
一般の日本人
(1946年:日本国憲法 公布)
国民主権、平和主義、基本的人権の尊重。
第9条で、戦争は放棄する。
マッカーサー
(1949年)戦後インフレは、超緊縮財政で抑え込む。
ドッジ・ライン、と呼ばれる方針である。
補足
日本国憲法 第9条の「戦争の放棄」は、世界の主要な憲法のなかでもかなり踏み込んだ平和主義条項です。戦後すぐの段階ではアメリカ自身がこれを推進していましたが、直後に始まる朝鮮戦争を境に、アメリカの態度はがらりと変わります。
日本国憲法 第9条の「戦争の放棄」は、世界の主要な憲法のなかでもかなり踏み込んだ平和主義条項です。戦後すぐの段階ではアメリカ自身がこれを推進していましたが、直後に始まる朝鮮戦争を境に、アメリカの態度はがらりと変わります。
マッカーサー
(1950年、朝鮮戦争勃発)
事情が変わった。
日本には 警察予備隊(のちの自衛隊)を作っていただく。
再軍備、ということになる。
一般の日本人
さっきまで「軍は解体」と言っていたのに……
ナレーター
米ソ 冷戦 の始まりにより、
アメリカにとって日本の役割は
「弱体化させるべき敵国」から
「強くしておくべき同盟国」へと反転した。
この方針転換を、当時の人は 逆コース と呼んだ。
吉田茂
(1951年9月、サンフランシスコにて)
サンフランシスコ平和条約に調印。
本日をもって、日本は主権を回復する。
同時に、日米安全保障条約。
アメリカ軍の駐留は、引き続きお願いする。
第五幕:現代 ── 同盟国どうしの摩擦と協調
岸信介
(1960年)
日米安保条約を改定する。
アメリカの日本防衛義務を、より明確にする。
一般の日本人
(国会前で)
アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか。
安保改定、反対。
(安保闘争)
ニクソン
(1971年)
これからは、金とドルの交換を停止する。
為替は 変動相場 に移っていく。
1ドル360円の時代は、本日をもって終了する。
(ニクソン・ショック)
用語ニクソン・ショックニクソンショック
1971年8月、ニクソン大統領が突如発表した経済政策の転換。最大の柱は 金とドルの交換停止(金本位制の事実上の終了)と 10%の輸入課徴金 の導入。戦後の世界経済を支えてきた ブレトン・ウッズ体制(1オンス=35ドルの固定相場)が崩れ、世界は 変動相場制 へと移行する。日本にとっては「1ドル=360円」の固定レートが終わり、円高(=輸出に不利)の時代に入る大きな転機となった。
佐藤栄作
(1972年)
戦後アメリカの施政下にあった 沖縄 が、
日本に返還されたぞ。
レーガン
(1985年、ニューヨーク・プラザホテルにて)
アメリカの貿易赤字、なんとかしていただきたい。
G5協調で、ドル安・円高 へ。
中曽根康弘
1ドル240円が、1年半で150円台に。
日本の輸出産業には、相当な打撃である。
(プラザ合意)
用語プラザ合意プラザごうい
1985年、ニューヨークのプラザホテルで開かれた先進5ヶ国(G5)の蔵相・中央銀行総裁会議での合意。アメリカの貿易赤字を解消するため、参加国が協調して ドル安・円高 に誘導することが決められた。1ドル≒240円だった為替は、1年半で1ドル≒150円台まで急騰し、日本の輸出産業は打撃を受ける。これに対応するための金融緩和が、後の バブル経済 の一因となった。
ナレーター
21世紀に入ると、リーマン・ショック後の世界金融危機、
中国の台頭、トランプ政権による保護主義への転換 ──
日米関係は経済・安全保障の両面で、新しい局面に入っていく。
同盟そのものは揺るがないが、
貿易・半導体・防衛費分担をめぐる交渉は、いまも続いている。
振り返ってみると
こうして並べてみると、日米関係はおおむね次のような「波」を描いてきたことが分かります。
幕末:圧力で開国させられる
明治・大正:仲介者として登場
昭和前期:対立し、戦争に突入
戦後:占領され、敵国から同盟国へ
現代:対等な経済大国どうしの摩擦と協調
同じ二国の関係が、150年あまりでここまで姿を変える例は、世界史的にもかなり稀。これからこの関係がどう変化していくのか ── 過去を踏まえて眺めると、ニュースの見え方も少し変わってきますね。
まとめ
– 日米関係は 1853年のペリー来航 から始まり、不平等条約 → 国際協調 → 全面戦争 → 占領 → 同盟関係、と何度も立場が入れ替わってきた
– 太平洋戦争の引き金になったのは、ABCD包囲陣による 石油などの経済封鎖 と、それを受けての真珠湾攻撃
– 戦後の サンフランシスコ平和条約と日米安保条約(ともに1951年)によって、日本は主権を回復しつつアメリカとの同盟国になった
– 現代では同盟を維持しつつ、貿易摩擦・為替・安全保障など、対等な大国どうしのせめぎ合いが続いている